宴もたけなわ

思い立ったら書きます。

唐部葉介の「つめたいオゾン」を読んだ感想

以下、自分の日記にさらっと書いた内容の貼り付けです。

そんなに長くないけどネタバレ含むので、まだ読んだことない人は読まないほうがいいです。

 

 

以前読んだドッペルゲンガーの恋人は複製と並んだ時に、どこに自己・自我を見出すか?という部分が印象に残った。

今回のつめたいオゾンでは共感覚をどこまで深く広くしていくか、そしてそれを極限まで拡大した時に自己・自我・記憶に価値はあるのか?という部分が強く印象に残った。

"それまでの価値"で見るなら物語の最後は救われないものになるが、新しい価値を受け入れるのなら喪失感だけではなくこれからの希望が同居しているようにも感じられる。

CARNIVALでもキラ☆キラでも、ラストは大事なものを失った主人公がそれを受け入れた上でわずかながらにも希望や肯定感を得る終わり方をしている。
その二作で試されていたのは物語の主人公だったが、「つめたいオゾン」で最後に試されていたのは読者のような、そんな気にさせる物語だった。

その理由は唐辺葉介にしては珍しくだと思うんだけど、三人称視点で描かれてるからなのかもしれない。

もしくは俣野脩一と中村花絵二人の幼少からのことを、僕はこの本の一部と二部を通して覗き見ていたのに、「彼ら」はいなくなり、独り残されてしまったからかもしれない。

 

 

ここまでが先週読んだ時の日記の内容。

簡単にさらっと書いたものなんだけど、こういうSFチックな物語って読んだ後にいくらか現実感というか、この本に書いてあることって本当のことなんじゃないか・・・?って思ってドキドキしたりするんだよね。

灼眼のシャナを初めて読んだ時も中二病感はんぱないけど紅世の徒とかほんとにいるんじゃないかみたいな変な感覚になったし、MATRIXもそういう感覚あったし。

あっ、こういうのメタ的な感覚って言うのかな?

 

んで、この本の場合はそのメタ的な感覚がかなり内省的且つ喪失感のある方向に向かうので内容はそんなに長くないんだけど、読後感としてかなりぐったりした。

というのも、中村花絵が紫外線に弱い自分の感覚をそうではない他人が実感できるはずがないとか、いじめをする人間は共感覚が狭いからだと言っていたら、アンナ・メアリー症候群の片割れとなる共感覚MAXな俣野脩一が現れるわけだけど、それは俣野脩一だけじゃなくて読者の僕も中村花絵の過去は読んだわけで〜・・・。

 

って、日記で短く書いたことを詳細に説明してるだけの野暮な感じになるからやめとこう。

 

で、最終的にああなってしまった二人は死んだわけではないし良かったかどうかってことなんだけど。

死んではないし、それを進化だとも思えるんだけど、これやっぱり素直には受け入れられないよなあ。

「ああなっちゃったんだから良かったって思うしかないよな・・・」ってところで止まってる。

せめて、「これからはこういう面でアドバンテージあるな!」みたいな考え方ができたほうが前向きなんだろうね。

 

でも、中村花絵がアンナ・メアリー症候群の進行を止めるために自殺しようとしたのを俣野脩一が止めたって過程があっての結果なわけだし、良かったか悪かったって考えること自体がおこがましい気がしたきたぞ。

 

やっぱりこれはキラ☆キララストの鹿之助のように、ただ受け入れるしかないもののように思えるな。

って、これ最初に言ってることを結局言い直してるだけの野暮な追記になっちゃったじゃん!

 

とにかく、そんな役回りを読者に押し付けるとはよくも!!って気分になったので、ちゃんとそういう役回りまで含めて物語内で完結してるキラ☆キラ、CARNIVALがやりたくなりました(それはそれで、結局主人公たちに感情移入して気分が落ちたりするんだけどね)