猫撫ディストーションてゲームをやったんだけど
もうわかんねぇなコレ・・・。
攻略サイト見ないで進めたらまずギズモ、それ以降は選択肢を攻略サイトで確認しながら式子さん→結衣姉さん→柚子→琴子の順でルートを進めていった。
ギズモルートはまだなんとなくわかる・・・かな?って感じで進められて、式子さんルートの七枷家内で意識のやりとりができるようになったところまではいいんだけど、木になったあたりで「なんぞこれ???んん???」ってなった。
それ以降はもはや理解しようと言う気力もなくなってしまい、するすると進めてたんだけど、琴子ルートの最後のほうでハッと引き込まれてしまい、「ワタシハダレココハドコ」ってなりかけた。
いや、結局よくわかってないんだけど、それでも惹きつけられたというか。
それにしてもギズモはうにゃうにゃ言ってるし、式子さんはまったり語尾だしでめちゃかわだったね!
式子さんルートの木になったあたりから消化不良感すごいんだけど、もうこまけぇこたあいいんだよ!!
哲学のことは全然わからないくせにこう言うのもおかしいけど、お話全体のテーマとしてだいぶストレートに哲学的な内容を扱ってる印象で、考えてもよくわからない部分が多かったのと、てきとうなこと書いても借り物っぽさとわかったつもり感がすごいことになってしまいそうなので、個人的な感想はもうほんとギズモと式子さんかわいかったってことくらいしか言えることないんだ。うにゃうにゃ。
ほんとはわざわざブログにせんでもいいかなと、式子さんルート終えたあたりで思ったんだけど琴子ルートをさっき終えて、その最後のほうでこいつぁ・・・!と思った言葉・場面があってすごく惹きつけられたのでそれだけでも貼り付けておこうかと。
俺はさっき『琴子』のあの感じを観た。
『琴子』を想うだけで、心の中が『琴子の感じ(クアレ)』で満たされた。
あれさえあれば、俺と琴子はどこにいても繋がり合える・・・。
だから、『言葉』の前に、『意味』を探した。
俺がいつでも、どんな時でも観ていた、あの人たちの感じをーー。
(謎空間で樹が一人でモノを考えてるシーン。突然画面を薄緑色が覆う)・・・?
ーーみ・・・ど・・・り・・・・・・・・?
そう・・・緑だ・・・。
言葉に変換すると、これは緑色だ。
植物の持つ優しい色だ。
俺は緑の光の中にいて、緑の光は俺の中にある。(この1行がすごいと思った!!!!)
緊張は無かった。
安らかで、落ち着いた気持ちになれた。
俺は見つめ続けた。
見つめるほど、心が穏やかになっていった。
心の全てを開いて、緑の光を受け止めた。
たったそれだけのことで、いろんな感じが心を満たしてゆく。
印象?感覚?質感?実感?言い方はどれでもいい・・・。
それは、言葉よりも先に、心が受け取る何かだ。
それがこれだ。
今、これを観ている俺が・・・。(今、画面を観ているあなたが・・・)
受け取っている『この感じ』だ。
ーー誰か分かったよ。
ーー俺のよく知ってるこれは。
ーー母さんだね?
(ここで画面が引いて式子さん登場)
式子
「へっへ〜、バレちゃったね!さすがターくん!」
ーーやっぱり、式子さんの髪だった。
式子
「髪の毛で分かっちゃうの?どうして〜?」
ーー俺には髪が『緑色』に観えてるからさ。
式子
「あはは〜、緑の髪の人間なんていないよ〜」
ーーそりゃそうさ、俺が観てるのは髪の毛じゃなくて。
ーー『式子さんならこうだ!』ってのを観てるんだから。
かなり長々とメモってるけど、このシーンですっごく印象に残ってるのは、
「 俺は緑の光の中にいて、緑の光は俺の中にある」
って1行。この中にいろんな意味が込められてるような気がするんだよね。
猫撫ディストーションをプレイする前の自分だったら特にたいした意味ももたなかったと思うんだけど。
その『文字』自体は前から知ってるし、どこかで同じような文を見たこともあるかもしれないのにね。
『認識』とか『世界』とかって、こういうことの積み重ねでもできていくのかも?
「式子さんならこうだ!」っていう、これは?
もはや色とかの言葉じゃ表せない感覚?これがクアレ?
鏡で自分の顔を見てみた・・・。
拳を握りしめ、思いっきり壁を殴ってみた。
何の意味もなかった。
そこにいるのは『俺』じゃなく、『ただの粒子の固まり』だった。
ほんの数年前まで、土だったり、空気だったり、海の水だったり、他の動物の一部だったりしたものが、今この時、たまたま『俺』という形に固まってるだけだ。
そして、ほんの数年後には、今の『俺』を作ってる粒子は、再び土や空気や海の水や、他の動物の一部になってるんだ。
誰かが何かの『意味(インプリケーション)』を与えなければ、世界はいつまでたっても『0』と『1』のままだ。
この辺でワタシハダレココハドコになりかけた。
言葉にはできないけど、『言葉』にしか置き換えられない何かで、俺は目の前の家を観ていた。
リビングには『母さんの感じ』が在った。
場所や物に、誰かの感じが残るのって不思議だけど・・・。
誰かが大切にしてた物に、その人の感じが残るように、そういうことってあると思う。
母さんはいつもキッチンにいた。
この場所で食事をする時、いつもそこには母さんがいた。
だから、母さんが料理を作らなくなっても、俺は母さんをここで感じてたんだ。
優しい緑の森のような『母さんの感じ』を・・・。
言葉にしようとすると、自分の知ってる表現の中からその時の感覚を表すのになるべく近いものを選ぶしかなくて、選んだ容器に感覚が収まるように、飛び出しちゃってる部分をカットするというか・・・そんな感じで言葉に置き換えることあるな。
なんてことを思った。
あと、この『母さんの感じ』って言うのがいいなと。
樹がリビングでいない母を思い出すシーンというと、テーブルの上に置いてある千円を拾い上げる時とかだっけ? 良い意味で思い出してたわけではないんだけど、それでもその場所で母さんを感じるだけの理由があったからってことだよね。
樹
「なあ、どうして別々に分かれちまったんだろう?視覚も聴覚も触覚も嗅覚も、何かを感じる感覚も・・・。
全部脳が受け取ってるなら、どうして一個一個、別のものとして感じてるんだ?」
琴子
「生まれたばかりの人間は、全ての感覚を同時に、重ね合わせで受け取ってます。
赤ちゃんに観えている世界は、色が音になったり、形が味になったりする世界なんです。
でも、人間は人間社会という、たったひとつの世界を共有するために。
脳にフォーマットをかけ、感覚を領域化し、言語というOSをインストールしてしまう。
たくさんの世界を失い、たったひとつの『現実』の中に押し込められるんです」
樹
「ほんのちょっとしたことで、何もかもが曖昧になる、いいかげんな現実か」
琴子
「だけど、誰もが記憶してる・・・赤ん坊の頃に観ていたものを。
無数の感覚が重なり合い、全てが自由に生み出せる世界を」
おもしろい。
意味を共有するために、OSをインストールして同じようにする必要があったのか。
でも最後の琴子が言ってる感覚、これって話に聞く限りのものだけどお薬キメた人の感覚に近い気がする。あえて脳の機能を壊すというか・・・。
他にも最初のうちはそこそこメモ取ってたんだけど、式子さんルートの終盤でこれは手に負えんぞと思ってほとんどメモをとらずに進めるようになってしまってなあ・・・
琴子ルートの最後のほうでビビっときたので、これだけでも載せてブログ記事として残しておこうかと。
猫撫ディストーションはまた数年後に、自分が今以上に頭の硬い人間になった時にやってみたいな。
あ、あと序盤の共通ルートなんだけど、公園でギズモと遊ぶシーンがすごい良かったよなあ。
Hello Word
ってさ。
それでは「観測者」のみなさん、今日はこの辺で。